マーティン・スコセッシ監督『沈黙』を語る -1-
マーティン・スコセッシ監督『沈黙』を語る
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1月16日(月)来日記者会見
リッツ・カールトン東京グランドボールルーム
『沈黙』日本公開を前に来日した
マーティン・スコセッシ監督の会見に参加させていただく機会を得て、
真摯なお話をうかがうことができました。
その時の模様をここに再現します。
マーティン・スコセッシ監督
『沈黙』は長い時間をかけてようやく映画化にこぎつけた作品です。
原作は日本で読んだのですが、その時にもう映画化したいと思っていました。
どう作るか、どのように原作を解釈すべきか、
なかなか自分の答えがみつけられずにおりましたし、
当時の自分には宗教観とか文化をそれほど理解できていなかったということもあります。
映画化に至るまでは、
この作品を理解し、試行錯誤を重ね、学ぶという旅をしていたようなものでした。
自分自身の人生を生きていくなかでも学んでいきました。
作品は完成しましたが、これで終わりとは思っていません。
この映画と共に生きていくという感覚があります。
去年、バチカンで上映し、ローマ法王に謁見しました。
ですが、実際に法王が映画をご覧になっているかどうかは確信が持てません。
忙しそうにしていらしたので(笑)。
でも、法王は相手を緊張させない方で、リラックスしてお会いすることができました。
長崎やイエズス会の神父たちのお話をしました。
バチカンでの上映会には100人程度の聖職者の方々に来て頂き、
その前日にもイエズス会の聖職者を迎えて上映しました。
その時はアジアや南アメリカの方がいらしていました。
『沈黙』は隠れキリシタンの受難を描いていますが、
日本のキリシタンたちの勇気と信念に感心せざるを得ません。
先日あるアジアのイエズス会神父が興味深いことをおっしゃっていました。
隠れキリシタンに行われた拷問も大変な暴力ですが、
西洋からの宣教師もそれと同じくらいの暴力を持ち込んだのではないか。
彼らは「真実である」としてキリスト教を持ち込みましたが、
それこそが侵害であり暴力ではないか。
この暴力に対応するには宣教師たちの傲慢をひとつづつ崩していかねばなりません。
だから上から崩していったのではないか、というのです。
この映画の中でロドリゲスの傲慢さも同じように崩されていきます。
そうすることで彼の中の誤った考え方が覆され、彼はそこで変わりました。
彼は仕える人になります。そうやって彼は真なるクリスチャンになっていきました。
日本のクリスチャンは多分そういうところに惹かれるのではないでしょうか。
慈悲心とか人間はみな同価値であるという理念ですね。
遠藤周作さんが「イエスの生涯」に書いているのですが、
キリスト教を権威的なアプローチで説くのは違うのではないか。
女性性でキリスト教を説く――
これこそ日本的です。
隠れキリシタンはそこに惹かれたのではないかと思います。
続
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☆2017年1月23日に更新しました。いつも応援して下さってありがとうございます☆
「キリシタンに加えられた弾圧も凄まじかった
けど キリスト教を持ち込むことも そもそも
弾圧ではないのか?」
深いっ。
実にその通りだと思います。
自分もアメリカの教会付属の英語クラスで
お世話になっているけど 時々感じるんです。
志の篤いクラスの先生が
我々生徒へ向ける 上から目線を。
良い方なんですよ。
でも 日本人生徒が「私達仏教では こういう
考えをするので」って説明しても
聞いてはいませんもの。
聞こうとしませんもの。
アハハ それでも通ってる自分は何なんだ🤣
色々思いながら 力強くポチっと❣️❣️
そうなんです!やはりそこに目がいきましたか?アジアの宣教師の言葉だということですが、アジア系ならではの言葉ですよね。私もすごく感じます。しかし、それを謙虚に捉えたスコセッシも偉い!
宗教面だけではなく、欧米系の人は皆知らず知らずに上から目線を出しているのかな?以前教えてくれたドイツ人の先生は「ユーラシア大陸なんてない。アジアとヨーロッパはつながってなどいない」と言いました。トランプの視線にも通じる発言ですよね。
力強いポチッをありがとうございました。